Youtube始めました
細々と基本「わたモテ」メインで解説動画作っとります
収益化なんて当然狙ってないので、ものの試しに見てやってください
「ミッチェル家とマシンの反乱」 もしホーマーだったらもっと....
2年ほど前にフィル・ロード&クリス・ミラーが新作アニメ映画に着手し始めた。というニュースから大きな期待をしながらも、先日まですっかり忘れていた。
「ミッチェル家とマシンの反乱」
ゴールデンコンビは今回監督ではなく制作に回りながらも
いつもどおりの所謂フラッシュ系統のネットミーム的なギャグの中、狂ったように動き回るキャラクターたちが
人間の繋がりに絶望したAIの暴走を止める。そんなお話
これまでのくもり時々ミートボールやレゴ®ムービー、21ジャンプストリートなどに見られた「シンプソンズ感」が、今回は家族の話でもあることからより強くなっている。
頑固で、無理解で短気な父親
それをひたすら宥め調和を保とうとするが、負けず劣らずクレイジーな母親
父に理解して欲しいが喧嘩ばかりの娘
困った息子
そして犬
もうどうみたってシンプソンズでありながら
しかしシンプソンズほどの毒っ気や、笑いのエッジはなく
多用されるミーム編集?が、これまでのロード&ミラー作品ほど上手く活きてこなかったり
一応の命題である「”繋がり”が理解できないAIに、家族の絆で問題解決!」
に対しての回答が結局成されない上に、暴走したAIは結局倒されて終わるだけで
原因の根本的な解決や、罰などもなく
以前のロード&ミラーが直接監督したミートボール、レゴ、スパイダーバースなどとは違って、物語としてもまったくテーマが回収、活用されず
ただ親子関係が修復されて終わりという点も、シンプソンズライクにも関わらず遠く及ばない。
てっきりAIとの問答で家族の繋がりの意義を問われた時、冒頭に出てきたヘラジカ語の「愛してる」を叫んで
言語化できない理解不能なモノ。という多少強引なれど、0と1では解読できないもの
というオチに持ってくるのかと思いきや、活かされるわけでもない。
あと主人公の娘が常にプライドフラッグのバッジをつけてLGBTQへの配慮をしているものの、ただつけているだけで物語では触れられることも活かされることもない。
これこそ目くばせの「我々はノイジーマイノリティに配慮しています」という形そのもので、結構不愉快でした
やるならやる。やらないならやらない。
笑えるところは笑えるけど、常に「あー、これホーマーだったらもっとクレイジーで面白いんだろうなぁ」
と予定されているシンプソンズ ザムービー2を待ち焦がれつづけた2時間でした。
ファービーのくだりは大好きでした
チェンソーマン -石ノ森章太郎を継ぐもの- 最新話までのネタバレあり
葬いの鐘が よく似合う
地獄の使者と ひとのいう
君たちはあるヒーローたちを知っているだろうか。
かつて冷戦下、人ならざる身体で国家の裏で暗躍する巨悪と戦ったヒーローを。
人間として当然の幸せに憧れ、神のごとき悪魔と戦ったヒーローを。
マフラーをなびかせたあのヒーローを。
そう彼の名は
チェンソーマン
- 前提のお話
- 本題
- メタファーと元ネタ
- 今後の期待と予想
- 最後に
前提のお話
週刊少年ジャンプで現在連載中の藤本タツキの「チェンソーマン」
連載当初から面白いのだろうと気になっていたものの毎週追うほどの気力はなく...
しかしここ最近、何か騒がしいと感じ取り最新話まですぐさま追いついた。
いざ最新話まで読んでると、1話から悪役であることを提示していたマキマの狙いと本性が明らかとなったことで予想の真逆、いやそれ以上の面白さが発揮されていた。
それまでは悪魔の力を発揮しても、頭部以外は人の姿のままだった主人公デンジの姿は変貌し、さらにはどういうわけか腹から腸が飛び出し、あたかも仮面ライダーやサイボーグ009が如く首に巻きつき垂れ下がっていた。
そしてマキマは言う
「助けを叫ぶとやってくる(中略)何度も何度もエンジンを吹かして起き上がる 地獄のヒーロー チェンソーマン」
そう、これまで悪魔をその身に宿しながら人々を守るという「初期デビルマン」的なフォーマットかと思いきや、この漫画は石ノ森章太郎が描いていたヒーローを継承しようという意思を明確に打ち出した漫画であった。
石ノ森ヒーローの肝である、人ならざる者の悲哀や苦悩なども、これまで非常に丁寧に描いてもいることから
ここで一度改めて流れを振り返ると非常に面白い。
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「鬼滅の刃」幾度と続く回想を超えた先には ノれないならこれを読め!
初めに
巷で大流行の「鬼滅の刃」
私はアニメ化された際に読み始め、そしてつるべ打ちのように繰り返される鬼と邂逅→戦い→回想にうんざりしながらも何だかんだでその時点での最新刊まで夢中で読み、そこで止まっていたのですが
まぁ面倒な自意識なもので、あまりにメディアで取り上げられると、どういうわけか何だか気に入らなくなり、楽しんで読んでいたにもかかわらず「回想がー」「呼吸とか型の習得ちゃんと描けよ!」とか嫌なところばかりが頭をよぎる。
しかし様々なところでヒットの要因やら何やらが語られる中、最も確信を突き、その膨大な知識量で解剖していった「山田玲司のヤングサンデー れいとしょう」において
きたがわ翔先生が解説された少女漫画による影響や、玲司先生のクロニクル視点などで非常に飲み込みやすくなり、そこで自分の大きな過ちに気づき、急いで最終話まで追いかけた。
大きな間違い
そう私は読む事前の姿勢から間違っていた。
週刊”少年”ジャンプに連載しているからと言って、その掲載作が少女漫画であることを考えていなかった。
そう「鬼滅の刃」は少女漫画として読めば、まったく違和感なく楽しめた。
それは回想やモノローグ、それまでの流れがなくとも最後にはキャラクター同士がくっつくことまで。
そしてラスボスが毒=女の執念によって倒されることも、すべて少女漫画として理解すれば問題なかった。
もちろんこれは少女漫画に対するdisなどではなく、男と女の決定的な違いによるものであり、最初から「これは少女漫画フォーマットですよ」と作中でわかりやすく示されているにも関わらず、その注意書きを読み飛ばし少年漫画スイッチのまま読んだ自分が悪い。
緑壱のくだりは結構ジーンと来て目頭も熱くなったことをここに書き記しておきたい。
ヒットの要因とマーケティング
なんてことを書くやつは大体怪しかったり、スノッブを効かせて訳知り顔をしたい輩が大半であることを知っているし
何よりマーケティングなんてものはアテにならないことが多い。
(E.T.は公開前、マーケティング部ではあんな気持ち悪い宇宙人がメインなんて売れるわけがない。と予想していたにもかかわらず大ヒットを記録している)
ではなぜここまでのブームを巻き起こしたのか、その着火元はなんだったのか。
それは80~90年代、幼少時から少女漫画を読み
0~10年代にジャンプのホモソーシャル要素でも大きくヒットしたNARUTOやBLEACHなど
それらを読んで影響を受けてきた作者自身と、それらを愛読していた読者ががっちりとハマったのは間違いない。
そこに特別な血筋、大正、剣士とくればそれは誰にでも一定の面白さを保証してくれる”定番の奴”という盤石の布陣が完成する。
もちろん編集部によるヒットするための路線づくりの形跡は1話からあるが、なにより作者自身の趣味が素直に日本中にハマったのは間違いない。
個人的に好きになった要因 ※ラストネタバレ
最後に無惨と炭次郎達を決定的に分けたのは
繋げようとする者
個体への執着
この違いでありながら、自己完結しようとしていた無惨が最後には繋げようとした....
と見せかけて鬼が象徴していた過去や執念や老害的なものを炭次郎に負わせようとしただけに過ぎなかった。
という構図は非常に良かったし、それが技を繋げて舞い続けることと、現代へ輪廻転生することと重なる作りは見てて腑に落ちた。
とはいえ
下弦の鬼一斉処分や、無限列車で「それでも現実と向き合う」という展開は最終盤に持ってきた方が燃えるのに勿体ないとか、最後の戦いに禰豆子は寝てるだけだったり、珠世の掘り下げもっと欲しいとか
技を繋げることがテーマに沿う作りなら、もっと技の解説とか意味を明確してくれないとノれないなどいろいろあるが
しかしそういった切り捨てられた必要だった部分などがファンの間で議論を巻き起こし、それぞれが自己解釈で愛を深め、結果作品がカルト化していくには欠かせない要素となっている。
最後に
夢中で読む→引っ掛かりがあって距離を置く→視点を変えて夢中で読む
まさに廻って繋がった結果、最後には好きになったおかげで、両側からの視点を持つことでより作品への理解が深まり、スイッチを切り替える判断の意識というものも新たに身についた。
サンキュー鬼滅の刃!
ついに最終局面「進撃の巨人」 テーマから見る最終予想
※最新133話までのネタバレを多分に含みます
コロナがなくとも確実に今年中に終わらない「進撃の巨人」
ヒストリアを除くすべての主要キャラクターがスラトア要塞という一点に向かい、後は一直線に進むだけという状況。
そこで”現在予測可能な情報”を書いていく。
- エレンの本心
- これは「愛が世界を救う」物語
- もう一つのメインテーマ
- 親と子
- ファルコと鳥瞰
- 最後に
エレンの本心
まず131話で判明したエレンのエゴと根源的な欲求である「外の(醜い)世界を壊したかった」という事実。
もちろんそれはエレン本人が心から思ったことであるには違いないが、それを行動に移し無垢の人々を踏み殺してでも行うのは明らかに始祖ユミル、および巨人そのものによって増長され”操られている”
この造形はわかりやすくそれを示唆しており、エレンの身体を吊り上げる糸は巨人の源であった寄生生物から伸びている。
さらに操られているのはエレンだけではなく始祖ユミルも同じ状況であることが133話の目元が暗くなった子供エレンと並ぶことによって絵的な説明がなされている。
それはエレンと始祖ユミルには物語を大きく貫くテーマであり問題の共通点の示唆にもなっている。
これは「愛が世界を救う」物語
始祖ユミルが最初から最後まで望んでいたことは”自由な愛”だった
そしてエレンは自分を愛してくれる幼馴染と友達を守るために、愛を切り捨てた。
調査兵団メンバーはエレンを愛しているから止めようとし
ファルコはガビを愛しているから戦い
アニもまたアルミンを愛しているから後悔する。
つまり今全てが愛のために動き、エレンとユミルという愛を諦めた二人の子供達に愛を伝え、世界滅亡を防ぐという物語。
こんな話を例えば映画二時間ほどで言われたところでどうしても薄っぺらに聞こえて魂には何も響かないが
連載期間10年以上、劇中経過2000年と社会性やそこに息づく人々を描きこめば
「愛が世界を救う」
という綺麗ごとなテーマがここまでの説得力を持つに至るというのは非常に面白い。
もう一つのメインテーマ
それは
「生まれてきただけで特別」
しかしこの言葉をエレンだけが”呪い”として使っている。
生まれてきたからには自由を求め、その為には涙を流しながらも他者を蹂躙せざるを得ない。
そしてその呪いを解くにはミカサの愛が不可欠であり、それに感化された始祖ユミルは気づいていなかった愛に気づくこととなる。
親と子
この漫画には多くの親子の確執が描かれる
リヴァイとケニー
グリシャとジーク
アニと父
しかし不自然なものが一つある
それは始祖ユミルと三人の娘
始祖ユミルは愛を求めながらも、愛を諦めたが故に死を選んだ。
しかし
三人の娘は母の死に泣いている。彼女たちには始祖ユミルに対して愛があった。
わざわざ自分が生んだ子を見て呆気にとられるようなコマを描きながらもその瞳や感情を描いていない。
これは意図的なものとしか思えない。
そしてこの漫画で多用される視点の置き換えから判明する真実や心理描写の転換方を考えると
上記のコマを今度は瞳と表情ありで、娘たちからの愛に気づくという視点を描き直すという転換があるのではないだろうか。
そうして三つの壁マリア・ローゼ・シーナは娘たちの愛による人類を守る壁となる
”意味の再定義”を用意していてもおかしくはない。
ファルコと鳥瞰
マーレ編に入って1pから非常に多様される鳥瞰と鳥そのもの。
133話で判明した空を飛ぶことのできる巨人の能力。
展開だけを見ると非常に唐突なものだが、ファルコが継承した”顎”の巨人。
そしてそれが鳥となって飛ぶ...そう、恐竜から鳥への進化をそのまま描いている。
ファルコやガビといった両者の視点を持った次世代の子供たちは進化し、最初は逃げるよう促していたファルコ本人が世界を救うために戦地へ飛んでいく。
これまで多用してきた鳥瞰は、いつもの鳥瞰に見せかけてファルコがやってくるというアガる展開にするためのものだった...?
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「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」をどうして好きなのかを再定義!
略して「わたモテ」
大前提としてこの作品がどういう漫画なのかの説明と魅力の説明はこちら
そして今回は、なぜ二次元にそこまでのめり込まない自分が何故ここまで一つの漫画に入れ込むのか?それを自問自答するそんな記事。
前提
前回のわたモテ記事で書いたかもしれないが、かつてクロに友達が出来始める8巻までは興味なく、また百合展開そのもの自体も一つの導入になったとはいえ、さほど重要視はしていなかった。(今では全部が愛おしくて仕方ないけど)
また好きなフィクションのキャラといえば、と想像して真っ先に出てくるのは
アントン・シガーや、ハリー・キャラハン”だった”
そんな”自分はちょっと違うぜ”と思いあがってるイタイ系オタクにさらに「わたモテ」により今やキモオタ要素まで追加されている。
LIKEからLOVEへ
もちろんキャラクター毎の魅力や主体であるギャグは面白いながらも、何よりこれを書くにあたって思い当たったところをいくつか挙げていく。
- 「ゴール」が明確に提示されていること。
(一定水準のクオリティと期待値を下回ることのないゴール)
- 主人公へのライド度合い
- 読み返す度の発見や繋がり
これら3つが何より大きい。
ゴールに関しては後述するが、主人公へのライド。つまり感情移入が深くなるのは彼女の高校入学から満たされず作者からも読者からも一種のピエロとしての扱いを見てきたからだろう。
これは間違いなくピカレスクロマンであり、そのジャンルのいわゆる基礎点があり、面白くないわけがない。
そうして何度も読み返す内に自分の中でパッケージとしての完成度が高まっていくと、次第に俯瞰していたはずがシッカリとキャラクターにのめり込み、気づけばTwitterで気持ち悪いことを言い出すわ、ぬいぐるみまで予約する始末。
(これが噂に名高いオタク税....)
時代性
さて、 いわゆる「なろう系」に対する嫌悪感とそのコンテンツによる功罪はかつてこのブログで書いたので割愛するが
人気を博した「鬼滅の刃」でも見受けられた、努力の最小化(技習得)
つまりは段取り、疲れる、美味しいとこだけ。的な現代社会の病理といって大げさでない問題を「わたモテ」は偶然とはいえ
何故あの独りよがりで空回りばかりしていたクロが徐々に周囲を蠱惑し友達を増やしていったのか。というロジカルな手順を踏んで願望の成就を遂げている。
また「インターステラー」や「君の名は」で共通して語られていた、みんながソーシャルや個人で完結し、何かを省いたり積み重ねの拒否する。
そこから人間関係から直接出会い交流し、生身を求め合う必要性も必然性も
この「わたモテ」ではしっかりと描かれている。
オレポイント
※ここは非常に個人的な問題なので飛ばしてOK
先ほど挙げた「ゴール」これに関しては
我々オタクは昨年「アベンジャーズ」でフランチャイズ映画シリーズ史上、今後も超えることのできない完璧な大団円を迎え天に昇り....
そして「スターウォーズ」で地獄へ落ちた。
さらにはネットフリックス限定ドラマの「ハウスオブカード」もまさかの主演降板によってファイナルシーズンは主人公不在の最悪のラストに。
また日本産ドラマで多大な期待をしていた「あなたの番です」も最終回は倫理的にも酷いものに....
アニメにおいてはトリガーの「プロメア」「BNA」も、どうしてもガイナックスに居た頃からはターゲットやしがらみによる問題があまりに表面化したこともあり、不完全燃焼に終わった。(SSSSグリッドマンはスタッフのオタク強度が濃すぎたせいでキャラクターの心理を描き忘れるという致命的なプロットの問題があったように思う)
そんなわけで入れ込んで見ていたものの殆どが悲惨な結果に終わり、精神は非常に参っていた。
一体誰が自分を抱きしめてくれるんだ?ミッドナイトゴスペルは深く刺さったが高尚が過ぎて長居できない....
といった具合で温かく壊れることのない、結婚を前提とした長期交際の相手を探していたところに「わたモテ」が、クロが流浪の自分を抱き留めてくれたのだ。
最後に
全部でっち上げです。
今思いついたそれらしいことを、わたモテ更新まで時間ちょっとあるし書いてみるか。ってなもんです。
とはいえ、なんで好きなのか。ということを友達や知り合いに話したところで長くなるし、この「好き」は非常に個人的な経緯で生まれたものなので、あまり押し付けるのもよろしくないと思い、ここで吐き出しました。
早くクロのぬいぐるみ届かないかなぁ...
8巻から再アニメ化しないかなぁ....
更新した瞬間トレンド入りするぐらい人気.....になると変なファン増えるから、それはそれで困るなぁ...
悶々
Netflix「悪魔はいつもそこに」 芸の肥やしって凄い!
※今回は映画自体よりも吹き替え演技についての話
9月16日 本日配信の「悪魔はいつもそこに」
(原題:The Devil All the Time)
映画自体は「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」のもっと単純版という印象。
映画自体は緩急あってそこそこ楽しめたんですが、今回は珍しく吹き替えで見て驚いた。
ロバート・パティンソン演じる、田舎で結婚している身でありながら若い女を神の名の元に孕ませ捨てる神父役が素晴らしかった。
もちろんパティンソン自身の演技もさることながら、吹き替えの櫻井孝宏の演技がアニメやゲームの演技よりも自然で、真に迫っていた。
もちろん声優業界の男は若手を食い何股をし、女性は枕営業があるというのが、もはや噂では留まらないほど各所から漏れ出ているわけだが、そんなことはどうでもいい。
我々は作品にあった演技さえしてくれれば、悪逆非道で女を泣かせようが、既得権益のおっさんに抱かれていようがどうでもいい。
(ちなみに特定の声優個人に対して愛も憎しみもなく、むしろ無関心です)
ただそんなことより今回大きな発見をしたのが、かつては芸能世界で当然のごとく言われていた「女遊びは芸の肥やし」というようなものは、悪辣でくだらない言い訳だと信じていたのだが、それは間違っていた。
ロバート・パティンソンの演じる最低最悪の神父は銃を突きつけられてもなお、悪びれず女のせいにする。
映画には偶に出てくるクソ野郎の典型のようだが、他で聞く演技はもっと戯画化されわずかなりとも誇張されているものだが、今回はまるでそう感じさせない
何か一つ上の説得力が乗っかっていた。
(一応弁解しておくが、その吹き替え声優の素行なんて知らず、このブログを書こうと思ってから初めて調べるとまさにビンゴといった感じ)
まさに今回はその女遊びは芸の肥やしとなっていた...
つまり、やはり演技をする上ではそれに近い実体験や共感、ある種のメソッド演技というものは演技力を格段に向上させるのだということを実感を持って知れた。
あとセバスチャン・スタンはアイ、トーニャの時も驚いたけど、今回もまた別人のような役作りによる体型変化は驚きました。
役者ってスゲー!!