雑食ふしあな雑記

勢いだけで映画やアニメの話など 

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ブライトバーン 親がダメなら子もダメ、ついでに映画も

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※ネタバレあり

 


もしも幼少期のスーパーマンがクソガキだったら

 

 

というホラー映画

 

ジェームス・ガンがプロデュースで入ってるから少し期待してたらガッカリ

 

 

ちょーっと気になる女の子の部屋に忍び込んだらキモいと言われて、自分が宇宙船に乗ってきた よその子だと知り、女の子の手を握りつぶしちゃって、それを反省していないならとカウンセラーの叔母がママと保安官に言いつけそうになったから、叔父を殺してうやむやにしようとしたけど

 

両親にバレちゃって、パパがライフルで頭を撃ってきたから殺して、ママも僕のこと殺そうとしたのでママも殺しました

 

 

というお話

 

 

 

ホラーというより「わっ!」的な怖さしかないし、ゴア要素が強くてなんだかなぁ

 

 

ヒットすれば続編でユニバース化する予定らしいけど....

 

それならせめて主人公に救いの余地なりを残さないと可哀そうな子供から落としどころを見つけれなくて結局ダメそう

 

 

 

 

パパさんの方は結局は養子で得体のしれない化け物だ!つってママ騙して息子殺そうとするわ、命乞いまでするし

 

ママさんはてっきりどんなことになろうとも息子の味方をするのかと思ったら、殺そうとしちゃうし

 

息子の方は人を殺すことを何とも思ってないし、散々殺しまくって「僕、善いことしたい」とか言い出すし

 

 

誰にも感情移入できないようになってて、久々に出会った”見なくてよかった映画”でした

 

息子が乗ってきた宇宙船のデザインが特にひどかった、お遊戯会のレベル

JOKER  ラストシーンの本当の意味とは 

 

 

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前回書いた記事では、見たほとんどの人が圧倒されるだけに留まっていた人が多いためのものだったが

 

今回は演出面などの話をしたい

 

 

まず皆混乱し、答えを求めているアーカム内でのカウンセリングからの

 

 

The End

 

あのラストはもちろん序盤のカウンセリングと対になっている

 

真っ黒で本や書類が山積みになって閉塞感のある部屋

 

真っ白で机と椅子しかないすっきりとした部屋

 

苦しそうに笑うアーサー

 

楽しそうに笑うジョーカー

 

ここに時系列などない、すべてはジョークだから。というのは簡単だが一つ明らかになっていることがある

 

 

 

ジョーカーはキリストであるということだ

 

マレーを射殺しパトカーに乗り、衝突事故で一度死に蘇り

その後、非常にわかりやすく両手を広げて人々が群がる

 

これ以上分かりやすい見せ方もないだろう

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(映画内でもこの絵同様、右手は上げている....というのはこじつけがましいか)

 

 

つまりあそこでアーサーは完全に消えてジョーカーという神になった

 

ということはだ、アーカム内で楽しそうに笑って最高のジョークを思いついている

 

あれは紛れもなくジョーカーなのだ

 

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JOKER  喜劇で終わらせてはいけない

まず自分の中のジョーカー観について触れておく必要がある

 

彼はあくまで混沌という概念であり、バットマンを映す鏡でもある

 

これが私の中のジョーカーだ

 

決して人間であった時や、素顔などはない

 

 

もちろんこれまでいくつかジョーカーのオリジンが描かれたことは知っているし、概念的な描かれ方をしたのも最近であることも理解している

 

 

 

そこでこのJOKERが制作されると知ったときは、失敗続きのDCが完全にキャラクターパワーに頼ってまた失敗する。ジョーカーのオリジンだけに注視するのは間違っている

 

 

などと思っていたが、既に見た方であればわかる通り

 

 

これは決して「ある男がいかにしてジョーカーになったか」を描く映画ではない

 

非常に身近な現実でいくらでも起きうる、現在進行形で起きている

である

 

例えこの映画をトランプ政権下でのアメリカであるとか、パンフレットにも書かれているような堕天使であるとか

 

もちろん自身の言葉に説得力を持たせる材料として持ち出すことは出来るが

 

ジョーカーの持つ本質は普遍性を持った狂気だ

 

例えこれが社会を形成しきる前の縄文時代であろうと、遥か先の未来でもあろうと

 

 

全時代に同時に存在しうるものこそがジョーカーだと信じている

 

そしてその神にも等しいモノが自分と取って代わろうとしてくる

 

だからこそ、その神に負けてはいけない

 

決してこの映画を恐れるところで打ち切ってしまってはいけない

 

恐れにマスクを被せるのだ

 

 

 

 

 

 

 

アイカツ! この頬を伝うのは....

あれは確かニール・セダカの「Calendar Girl」を聴こうとYoutubeで検索したときだった

 

カタカナで「カレンダーガール」と検索するとトップにはアニメのサムネイルの動画が。

 

www.youtube.com

 

興味本位で再生してみると、これが驚き!びっくりするほどキャッチ―な曲。

 

詳細を調べると「アイカツ!」という女児向け販促アニメのテーマ曲らしい。

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こんなにいい曲なら中身はどうなんだろう...とはいえ販促アニメの4クール以上もある、それも女児向けアニメだから自分とは合わないだろう。そう思いながらもなんだかんだ1話を見た。

 

 

「まぁまぁ、歌ってるキャラクターの雰囲気は掴んだし、もういいや」

 

 

とすぐさま視聴をやめて1年。

 

「カレンダーガール」を何度も聞いていると、心の中で誰かが「未だ続いている人気シリーズ、調査の為に見るのもいいのでは」と囁く。

 

 

そこで

 

アイカツ!」S1の50話中、人気が高いとされている約20話分(販促シーンを飛ばして)1.7倍速で駆け抜けた。

 

というのも、流石に女児向けのアニメのテンポやノリを20代男性、好きな映画はノーカントリーというような層に向けて作ってるわけでもないからだ。ここは容赦して頂きたい。

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別段、人間ドラマや作画に注目できるわけでもない。そんなものは高畑、富野アニメに任せておけばいい。

 

 

しかしどういうわけだ。最終回に近づく度、いつの間にか通常速度でテレビ画面を前にまんじりともせず見ていた。

 

 

それどころかS1最終回、主人公がアメリカ行きを決意し最後のライブで流れるのが初期ED「カレンダーガール」

 

本来であれば販促シーンとしてAパートで終わるものの、Bパートへそのまま続き

 

学園を出て空港へと急ぐ主人公と付き添う親友二人。

 

しかしその中でこれまでの回想の中、次第に涙ぐむ親友

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そこで聴き馴染んだ歌詞

 

「何てコトない毎日がトクベツになるかけがえないの、オトナはそう言うけれど、いまいちピンとこないよ」

 

「思い出は未来の中に、探しに行くよ約束。いつもの景色が変わってく。楽しい予感があふれてるね」

 

ところどころの歌詞が異化効果的に反作用しながらもシンクロする演出に

 

 

「そうかこれは親友視点の”送り出す曲”でもあったのか!!」という新しい層が合わさって思わず目頭が熱くなる。

 

 

 

さらにこの曲が流れ始めてから台詞は一切排され、情緒的に学校から空港までの道中が描かれるため、より親友の気持ちに入り込んで曲のエモーショナルと感情が高まって高まって、曲のフィナーレと共に親友の涙が溢れてしまう。

 

また親友二人のうち、アイドルになるきっかけであり最初から一緒にいた子と、途中から友達になった子との悲しさの度合いが距離と涙でしっかりと分けられていて、全員がとりあえず泣くのではない一定のリアリティラインによってさらに没入できる。

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上手い!

 

もしもこれをリアルタイムで1年間見ていればテレビの前の良い子は、この別れが原初的な物として深く心に刻まれるだろう。

 

 

 

 

今後聴いていく「カレンダーガール」がより良いものになり、約3時間ほどかけて「アイカツ!」のことも理解できて非常に価値ある投資だった。

 

 

 

きっと見るよう背中を押したのはがいいと囁いたのは、彼だったのだろう....

 

 

 

 

ありがとうニール・セダカ!!!

 

 

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......えっ、主人公すぐに帰ってくるの.....?

 

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「天気の子」ネタバレあり   新海誠の新劇場版:破

新海誠の最新作「天気の子」見てきた

 

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まず前置きとして、個人的に新海誠作品は「君の名は」以外全部嫌いで

 

文章だからまだ大丈夫だった村上春樹イズムを声に出されるのが本当に苦手で

 

さらにそこに90’sウジウジ系譜が重なって

「秒速五センチメートル」とか電車止まってんなら走れよ!とか

 

言の葉の庭」のマンションから飛び出すシーンも大爆笑だし

 

「君の名は」で三葉が恋してるのは瀧くんじゃなくて東京だしで

 

とにかく新海誠は、宮崎駿とか富野由悠季庵野秀明的な鬱屈した破壊衝動とか自己矛盾がねーじゃん!知らねーよそんな満たされた奴の話なんて!

 

 

と思ってましたよ

 

 

 

しかし!

 

 

今回の「天気の子」は、まるでこれまでの自分の過去作への自戒というかアンサーになっていて

 

 

惚れた女のためなら傷だらけになって、法は犯すし、国家権力にだって歯向かう

 

大好きな東京だって犠牲にできる

 

 

あの今までずっと好き好き言ってた東京を!犠牲にできるんだよ!

 

 

 

今まで記号的だったサブキャラクターもしっかりと魂があったて主人公の対比や鏡像関係も盛り込み、バイクチェイスといったアクションまで入れ込んでいる

 

 

また、これまで【綺麗】で止まっていた画が【カッコイイ】に変化していて

 

 

 

それでいてポニョと似たテーマを持つことへの配慮して、おかっぱ刈り上げの少年に「サカナ!」と言わせるような目配せも怠っていない

 

 

「君の名は」で映画的な演出を初めてしているのを見て「できんじゃん!」と思ったが

 

 

 

今回は「御見逸れしました監督」ぐらいには好きになった、なってしまった

 

 

もちろんこれは偏に川村元気さんの手綱さばきの賜物ではあるとは思いますが

 

これまで人気を得ていた要素を少しずつ削っていって、最後には失ってしまっても

全部かなぐり捨てて他を犠牲にしてでも好きだったものを取り戻す

 

まさに天野陽菜というキャラクターは新海誠の作家性といえるのではないでしょうか

 

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グリーンブックを今更見て   めっちゃいい!けど、そうじゃない!

ヴィゴ・モーテンセン

 

マハーシャラ・アリ

 

二人とも大好きな役者で、話も面白かった

 

アカデミー賞狙いとは思えない明るさと心地よさで全く退屈しない2時間!!!

 

 

 

 

 

でも.....ラストシーン

 

シャーリーがトニーの家を訪ねクリスマスパーティーを共に過ごし、妻に手紙を手伝っていたことがバレていた

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という非常に可愛らしいシーンで締められるが

 

 

 

この映画の最後は

 

 

 

冒頭にトニーが捨て、その後妻が拾い上げた「黒人が口を付けた”二つの”コップ」

 

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これをトニーとシャーリーが使って乾杯をするシーンで締めるべきだよ!!!!!!

 

 

 

 

最後の最後でちょっとモヤッとしたけど....でも悔しい!やっぱりいい映画

 

 

 

余談

チャドウィック・ボーズマンスパイク・リーが白人救世主とか言ってたけど

 

あまりにも難癖だ、エンターテイメントでありアメリカ以外の国に住む人間にとって人種差別問題に対して考える導入ともなる

 

ウィップラッシュで菊池成孔が突っかかっていたのと同様の「限界値」がある

もちろん肌が黒いわけでも、スラムでの過酷な状況も知らないし、本来であれば知る必要もないところだが

で、あればブラックパンサーにメインキャストでアジア系が入っていないし

 

エンドゲームでは日本描写もいい加減だった

しかもキャプテンアメリカという白人が結果世界を救った、まさに白人救世主の話だ

 

 

こんな風に難癖はいくらでも付けられるが、今回のグリーンブックにおいては史実である

 

もちろんいくつもの脚色を踏まえてではあるが、二人は助け合って友情を深めた

 

結局のところ一度つけてしまった差別意識はどちらに傾こうとも二度と平等には戻らないと、外野の差別意識によって再認識してしまった

 

 

 

なんだか最近、人種やら性別の問題ばかりで文句を言ってる気がする

 

完全にハリウッドの悪い影響を受けてしまった

 

 

 

映画はフラットに見たいですね

 

 

 

 

 

トイストーリー4に足りなかったこと、ラセターなら出来ていたこと 喰らえこれが真のトイストーリー4!

今作で何が問題だったのか

 

 

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「優しくて 頭がよくって、でも ウッディの特別なところは…彼は絶対に君を見捨てたりしない 

 

彼はそばにいてくれる、どんなことがあっても

 

大事にしてくれるかい?」

 

 

アンディはこう言ったんだ....彼だってずっとウッディと一緒に居たかったんだよ!!

 

しかもアンディが子供の時から別れの時までを映画冒頭で振り返るが、ボニーはウッディを物置に入れっぱなし、埃をかぶっている

 

ラセターの影がちらつくウッディを

消したいんだろう?

 

それならせめて上手くやるべきだった

 

トイストーリー4はこうすればよかったんだ

 

 

 

 

 

ウッディはボニーに遊ばれても満たされない、なぜなら自分の子ではないからだ

 

そういった段階を踏まえてフォーキーとの出会いを描く

 

 

しかし自分の存在意義を見つけられないフォーキーがボニーにとって大切であるということに気づくのがあまりに早く、ただ口頭でしか示されない

 

あれはウッディの必死の行動、そして後述するギャビー・ギャビーとの関係性で

フォーキーがセリフでなく映像として自身の存在意義に気づくのだ

 

そしてフォーキーがボニーに最もふさわしい親として遊ばれるシーンは絶対に必要だった

 

 

アンディと約束したのにウッディを適当な扱いをするボニーならどうせ数か月後には飽きて捨てられるだろうけどな

 

 

 

この辺りも本来であればしっかりと描かれるべきポイントであるが…

 

キャンピグカーのシーン同様にゴタゴタしてたんだろうなぁ…あそこはまさに三流脚本のグダグダ展開だ

 

 

またバズ・ライトイヤーはフォーキーの為に自暴自棄になって無茶をやらかすウッディを隣で相棒として見て、彼がどうしたいかを次第に感づいていくシーンも必要だ

 

 

そして最も重要なのが

 

 

フォーキーギャビー・ギャビー

合わせ鏡のような存在であるべきだった

 

 

本当は自分は捨てられるべきゴミで、でも必要とされたいという互いで補完し合うべきキャラクター造形であるにも拘らず、両者の心の触れ合いもない。

 

 

 

そうして成長した二人のおもちゃを見てウッディは

 

サウンドボックス=心臓

   そして

  親としての魂

 

この二つがそれぞれ継承され、子供たちに遊ばれる姿を見届け

 

アンディの元へボロボロになりながらも戻り、完全な無機物になりながらも

 

 

 

3のラストのセリフ

 

 

またな相棒

 

これを回収して今度こそ完全に締めるべきだった

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こうして書きながら、頭の中でトイストーリ4(fan edit ver.)を編集しているだけで涙が出てくる

 

 

 

ありがとうウッディ!ありがとうフォーキー&ギャビー・ギャビー!

 

 

 

二度と帰ってくんなよ!