異世界転生ラノベを好きになれない理由 しかして永劫回帰は悪なのか?
初めて永劫回帰への疑問を持ったのは、確か2000年公開のアニメ映画
そこで初登場したポケモンが後にアニメシリーズに出た際、サトシはそのポケモンを知らず図鑑で検索する。
これを見て7歳だった自分は「なんで知らないの?」と疑問と不満に駆られたことをよく覚えている。
あの7歳の子供の疑問と不満を明確に言語化するならば
「僕が映画で見た物語はなかったことになっている。ならばあの中でサトシ達が得た
体験と成長の意味はなかった、取り上げられた」
ということだろう。
しかしここで重要なのは7歳の時点でアニメシリーズであるポケモンにそれほどの思い入れもなく、毎週欠かさず見ていたわけでもない。
それでも裏切られたような気分だった。
そして中学生の頃「仮面ライダーディケイド」
平成ライダー10周年ということでこれまでの仮面ライダーがゲスト出演するというお祭り番組であったが、出てくるライダーはオリジナルの設定となり、仏作って魂入れずという状態で、脚本もまた酷かった。
そんなこんなで幼い頃の人格形成の材料となったものを公で否定された気になり、フィクションとはいえ得たものを取り上げられるような感覚から、深く永劫回帰への反感を持つようになった。
そこで今日。既に全盛期を過ぎ、飽和し伸び悩んだジャンル「異世界転生モノ」
メイン読者層は明るくヤンチャな集団に引け目を感じている根暗な少年から、人生に疲れ逃げ出したがっているサラリーマンがメインだと聞く。
当然現実から目を背け、夢としがらみ無き空想の世界に浸りたいだろう。
そしてそれに苦言を呈す権利のある人間は親だけで、他者がとやかく言う問題ではない。
実際、仏教もキリスト教もこの現実世界は辛いから宗教と言う現実逃避先が必要だと説いている。
しかし、逃避しても確実に襲ってくる現実は依然として存在していて、逃避後の自分に変化があるわけではない。予定救済もなければマリアもいない。
つまり
永劫回帰で現実逃避をしていた自分そのものが永劫回帰になっていた
ミイラ取りがミイラになっているようなものだ。
それはそれでいい。生き続けられるなら。と思う人もいるだろう。
しかしどうだ。明らかにエンタメの質は下がり、粗製乱造を繰り返し、体制は腐り、
誰からも相手されなくなる。
これは現在の邦画が、既に良いお手本として袋小路に入っている。
実際アニメ会社は次々に倒産し、アニメに注がれた外貨はスポンサーやテレビ局や広告業界の権利分配によって小分けにされ、力の入った傑作はもう10年以上生まれていない。
永劫と思っているソレは、螺旋を描いてドンドンと小さく、下へ下へと沈んで消えていくだろう。
これを変えるには永劫回帰ではない、終わりのある物語を自分の宗教として掲げ、終わるたびに再誕し、新たな生き方を見つける。
そうすれば自ずと永劫回帰から抜け出せる。
しかしそれにはただならぬ努力と自覚と変革が必要となる。
例えば、いつまでも好きなものだけに局所的に浸り続けるであるとか。
仲間同士だけで絶対的他者との接触を避けるであるとか。
それをいつか、自分が書いた物語を介して批判一辺倒ではなく、肯定すべきところは肯定し、それでいて目を覚まさせれたらなぁ。
なんてなことを思う次第でございます。
ジブリパーク 勝手にやってろ
ジブリパークが2022年に開園予定と発表され、あまりにも皆浮足立っているので、
ここに大きくも重い”真実の釘”を打ち付けておきたい。
というのもジブリとは、
高畑勲が自分の好きなだけ金と時間を使い、常人には一切理解できない常に革命的な映画を作るため、宮崎駿がそのケツを持ちながら自分の家を抵当に入れ、大衆にヒット作を作らなければいけない。という大前提に常に高畑勲への挑戦を行う、修羅の場所であった。
また、東映の労働争議から学んだアニメーターを固定給で雇うという鈴木Pとの誓いの下に生まれたスタジオでもある。
そして宮崎駿は決してディズニーのような資本主義に飲み込まれてはいけないとも常々思っていた。
しかし、高畑勲という神的な存在によってかき乱されるジブリの懐事情により、決して手を出してなるものかと思っていたグッズ制作に手を出さざるを得ず、一歩ディズニーへと近づいてしまったことを宮崎駿は自ら立てた誓いを守るべく、苦々しく受け入れた。
さらに言えば、国民の半数以上が勘違いしている「宮崎駿は自然が好き、エコロジーが好き」という間違った作品解釈が、このジブリパークには強く反映されている。
当然、そこで宮崎駿の真の心根をジブリパークに反映すれば兵器と少女で埋め尽くされ、まさに地獄絵図となるだろう。
しかし宮崎駿は自分の我よりも、まずはヒットを念頭に置く、実にクレバーな監督でもある。
一般大衆が自分の張ったオブラートだけを舐めて「甘い甘い」と喜んで帰る”客”には、ニコニコ見下し笑顔で見送ってくれるだろう。そしてその中にある苦く、しかしそこにこそある良薬を知っている”観客”に対しては、ニヒルな笑顔で腕を組みドヤ顔をしていることだろう。
そもそもディズニーランド自体もまた映画の製作費が日ごと増し、制作期間の収益を出すための資金繰りとして生まれたものではあるが、ウォルトはそこに「俺の好きな乗り物博」が出来るという、資本主義と魂の両立が出来てた(今は違う、特にあのテディベアfuck!)
つまり、22年に誕生するジブリパークは魂なき、資本主義だけが独り歩きした、テディベアだけのディズニーランドだ。
当然それを良しとして、喜び勇んで開園初日には、まさにムスカが言うところの「ゴミよう」な”大衆”が詰めかけるだろう。
それを一番良しとしないのが、ジブリそのものである宮崎駿と高畑勲だというのに....
Fuck'n資本主義! Fuck'nディズニー!
インサイド・ルーウィン・デイヴィス これは果たして負の輪廻なのか
マイオールタイムベスト10位内に入る映画「inside llewyn davis」
「ノーカントリー」のコーウェン兄弟監督による
1961年、売れないホームレスフォークシンガーの物語
実在した、あるフォークシンガーの自伝から着想を得た今作は、実際のNYフォークシーンとは違い、劇中は冬の季節そのままの冷たく一切の温かみを感じさせない色調で一貫している。
そしてその温度感の通り、主人公は明確な成長や成功などを経ることなくこの映画は終わる。しかしここが今作の最大の争点であり魅力である。
主人公はボブ・ディランの登場により、さらに居場所を無くしていくのか。それともボブ・ディランから始まるシンガーソングライターの潮流に乗って行くのか。
日本で最も有名な映画評論家 町山智浩は自身の有料配信での解説評論において、終わらない輪廻に閉じ込められてしまった。という監督のフィルモグラフィから結論を見出していたが、私としてはこの映画は決してそのようなオチではないと考える。
それは、かつて孕ませてしまい中絶することなく、隠して生むことを選択した女がいる街への分かれ道へと進む車を、カメラはあえて寄りながら追従すること。
そしてジーンがガスライトカフェのオーナーに抱かれることで主人公をステージに上げようとすることで、未だにそこには愛があることを明確に示すことなど。
また決定的なのは冒頭とほぼ同じ展開がリフレインされるも、最後の主人公は路地裏で殴られたあとに、相手が去るのを見送りながら「au revoir」と別れを告げる。
これは前進であり、輪廻からの解脱として捉えるのが正しいだろう。
何も監督というものは常に一貫したテーマを打ち出すわけではない。
(身近な例では宮崎駿は常に過去の自分を否定している先に進むタイプだ)
つまり主人公は、この輪廻を何度も繰り返した後、いずれは脱し、孕ませてしまった女の元へ行き、
自分の子供と出会い、いずれはソロでの成功へと繋がるかもしれない。
才能はありながら金にはならないと言われながらも、幾度となく諦めようにも自分にはそれしかないことを思い知らされる。
その姿に私は自分を重ね、明るい未来を望んでいるだけなのかもしれないが、映画とはそういうものだ。
失意の果ての不毛な輪廻なんてまっぴらごめんだ。
スター・ウォーズEP9 スカイウォーカーの夜明け ネタバレしまくり感想
先ず感じたことは感謝だった。
それは綺麗に終わったこと。
ブレイクスルーを成し遂げたこと。
それでいてオリジナルを尊重したこと。
そしてEP8で滅茶苦茶になったストーリーラインを見事納得いくものへと舗装して見せたこと。
誰しもファンであれば感謝を捧げたくなるだろう。
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みんなは気づいてたけど、今更言語化できたスターウォーズのプリクエルとオリジナルの構造
おそらく4往復目ほどのスターウォーズのEP4~EP3を経てようやく気付いたのが
プリクエルでは母を助けられず、ジェダイによって禁じられた愛のせいでアナキンはダースベイダーとなってしまい銀河を征服し
オリジナルではルークは最後まで父をダークサイドから救おうとし、ありのまま自由の下でソロを愛したレイアが銀河を救う
完全な鏡像関係になっていることをやっと意識的に気づいた
また、ゲームの「ジェダイ フォールンオーダー」をクリアして、久々に何度も負けてコンティニューというゲームの楽しさを味わいつつ
「そう!ジェダイ+自然が見たかったんだよ!」という要素を満たしつつ、しっかりとダースベイダーへの畏怖も増してたり
ライトセイバーを自分でカスタマイズしたり、カウンタースタイルのバトル方式もジェダイ感満載で、アクションはアンチャーテッドのようなやってて飽きないタイプで非常にいい出来でしたね
EP9、きっと前作のような悲惨な結果にはならないと信じているので、さらにスターウォーズ熱を高めていこう
ヒックとドラゴン3 酷い....でも好きだから仕方ない
あの大傑作「ヒックとドラゴン」の三作目にして最終作
日本では2がビデオスルーとなったが、ファンの熱い声により年末には3が劇場公開も決まって一安心
今回は毒でどんなドラゴンでも操れるという、前作と比べて全く魅力のない敵に村を
狙われ、一族で聖域と呼ばれる安全な場所へと移住しようとするが白い雌ドラゴン
”ブライトフューリー” が現れトゥースレスはメロメロ....
というお話
今回の悪役はトゥースレスの一族であるナイトフューリーを絶滅寸前まで追い込んだ頭の切れる策士という美味しい設定にも関わらず、特にプロフェッショナル感もなければ、今作の出会いと別れというテーマに結び付いているわけでもない
そして花形として押し出されているブライトフューリーは当初敵に捕らわれていたが、あえて解放しトゥースレスを魅了する....というが操られていたり、居場所を知らせるということでもなく
ただ解放しただけ
....なんじゃそりゃ
そして見なくても予想のつくごたごたの末、主人公たちは1作目に同じ展開で連れていかれてしまったドラゴンたちを取り戻すべく戦い、勝利するが
ついに主人公はこれからもドラゴンたちと暮らしていけば同じようなことが起きるという、それほどその結論までの積み重ねがないためそれほど納得できない結論に至り
トゥースレスに全てのドラゴンを聖域へと引き連れさせ、ついに別れを迎える
最初に主人公たちは自分たちも一緒に聖域に移り住むという計画だったにもかかわらず、なぜか別れを決める
一応「きっと誰かがいつか聖域を見つける」「今の世界じゃまたドラゴンを巡って争う」という理由付けはされるが、説得力は皆無
クライマックスでの空中戦も非常に単調で、規模は1作目に負けるほど小規模にがっかり
正直冷静な目で見ると酷い内容だった
しかし
自分は1作目があまりに好きすぎる、主人公カップルがたまらない!というダメなオタクなので
とにかくイチャイチャする主人公カップルや、キャラクター同士の掛け合いなどを見るだけで十分
あの小っちゃかった子たちが結婚して子供まで.....
ヒックとドラゴン好きにはお勧めだけど、映画そのものはダメダメでした