リメイクの是非
昨日、デジモンシリーズの監督がTwitterにて新作を自身から降板した旨を報告した
ついこの前まで劇場で公開されていたデジモンTriシリーズ
4年前の当時この企画が動き出した時点で既に不安しかなく、期待はなかった。
それはなぜか
彼等は1作目に成長を経て、2作目ではそれを次の世代へと受け継がせる役目を経て
最後には大人になり子供までできる大団円を迎えて終わったからだ。
既に彼らは成長しきり、どこへ落ち着くのかを知っている我々。
この間に続編を作る必要や意味付けがあるとすれば描くことは2種類しかないのである
それはグレッグ・モットーラが描いているような「子供時代の終わり」
もしくは今までの2作へのアンチテーゼだ
私はtriを1章しか見ていないが、元となった某ゲームのアニメ主人公よろしく経験値は0に戻り2作目で見せていたような大人びた頼れるかつての主人公の姿はそこになく
愛も情熱も感じられないコンテと作画でもって作り手の
当時見てたお前らももう自由な金持ってんだろ、ほら懐かしのデジモンだよ
という不真面目で不義理な意図が手に取るようにわかる
制作中に監督が逃げ出した、などいろいろ混乱していたという噂も流れているが
たとえ逃げていなくても、そもそも作り手(スポンサーの意向)である
今のオタクに受けるようなキャラデザ、
声優に変えれば一石二鳥っしょ!
この恥も外聞もなく全面に押し出す商業臭で中身は見ずとも察することはできる
もちろん企業が金を稼ごうとするのは当然だ。しかしその姿勢にて是非が分かれる
漫画家、島本和彦の言葉を借りることにするが
初代を作ってた人がそのまま続けていって何が当たったのかわからずダメになっていった
それを当時見てた子供が「あそこがよかったんだ!」に現代的再解釈と愛を込めて作ったからこそ成功したのだ
これらは荒唐無稽が通じなくなった現代で、それをどれだけ信じ、どれだけ真剣に描こうとするかなのだ
MARVELは先陣を切り今なお進み続けている
金の問題ではない、スタンスの問題なのだ
作り手が真剣に作れば、受け手もまた真剣に見る
馬鹿にして作れば、馬鹿にしてみる
当然のことだ