インサイド・ルーウィン・デイヴィス これは果たして負の輪廻なのか
マイオールタイムベスト10位内に入る映画「inside llewyn davis」
「ノーカントリー」のコーウェン兄弟監督による
1961年、売れないホームレスフォークシンガーの物語
実在した、あるフォークシンガーの自伝から着想を得た今作は、実際のNYフォークシーンとは違い、劇中は冬の季節そのままの冷たく一切の温かみを感じさせない色調で一貫している。
そしてその温度感の通り、主人公は明確な成長や成功などを経ることなくこの映画は終わる。しかしここが今作の最大の争点であり魅力である。
主人公はボブ・ディランの登場により、さらに居場所を無くしていくのか。それともボブ・ディランから始まるシンガーソングライターの潮流に乗って行くのか。
日本で最も有名な映画評論家 町山智浩は自身の有料配信での解説評論において、終わらない輪廻に閉じ込められてしまった。という監督のフィルモグラフィから結論を見出していたが、私としてはこの映画は決してそのようなオチではないと考える。
それは、かつて孕ませてしまい中絶することなく、隠して生むことを選択した女がいる街への分かれ道へと進む車を、カメラはあえて寄りながら追従すること。
そしてジーンがガスライトカフェのオーナーに抱かれることで主人公をステージに上げようとすることで、未だにそこには愛があることを明確に示すことなど。
また決定的なのは冒頭とほぼ同じ展開がリフレインされるも、最後の主人公は路地裏で殴られたあとに、相手が去るのを見送りながら「au revoir」と別れを告げる。
これは前進であり、輪廻からの解脱として捉えるのが正しいだろう。
何も監督というものは常に一貫したテーマを打ち出すわけではない。
(身近な例では宮崎駿は常に過去の自分を否定している先に進むタイプだ)
つまり主人公は、この輪廻を何度も繰り返した後、いずれは脱し、孕ませてしまった女の元へ行き、
自分の子供と出会い、いずれはソロでの成功へと繋がるかもしれない。
才能はありながら金にはならないと言われながらも、幾度となく諦めようにも自分にはそれしかないことを思い知らされる。
その姿に私は自分を重ね、明るい未来を望んでいるだけなのかもしれないが、映画とはそういうものだ。
失意の果ての不毛な輪廻なんてまっぴらごめんだ。