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「ぼくらのウォーゲーム」40分間で全てを見せる細田守の最盛期

あれは私が幼年期のころ。

 

VHSを幾度となくレンタルし、食い入るように見ていた。

 

 

99年より始まったTVシリーズ デジモンアドベンチャーの劇場版第二作

 

デジモンアドベンチャー 

       ぼくらのウォーゲーム!」

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あらすじ

簡単に内容を振り返ると、1年間のTVシリーズの物語が既に終わった”成長後”の物語

 

デジタルワールドから子供達が帰ってきて数か月経った2000年の春休み。突如ネットに出現したデジタマから生まれた新種デジモンは、ネットに繋がるコンピュータのデータを食い荒らし、様々な機関を暴走させながら急速に進化。

世界を混乱に陥らせる謎の新種デジモンを止めるため、事態に気づいた太一、光子郎の二人は選ばれし子供達を集め、再び戦いへと乗り出すことになる。(wikiより)

 

たった40分

まずこの映画の驚くべきところは、上映時間40分という短さである。

 

もちろんTVシリーズからの続編ということで各キャラクターの説明や関係性を0から描く必要がないということもあるが、例えTVシリーズを知らずとも自ずとわかるようにも描かれている。

 

だからといって、全く同じプロット、時間でこれほど絶妙な静と動、起承転結、そして大人から子供まで楽しめるよう作れるかと言われれば非常に難しい。

 

 

 

元ネタ

タイトルにもあるようそのまま「ウォーゲーム」や、

動き出した核兵器を止めるため右往左往する「博士の異常な愛情」などはわかりやすい。

 

劇判にも「博士の異常な愛情」でも使われていた「ジョニーが凱旋するとき」のアレンジや、クライマックスにかかる曲は細田守の要望によりG・フォーレのレクイエムを意識的されている。

 

しかしそれはあくまでも大人が見て反応する程度に抑えられており、ここにおいても知らずとも一切問題はない。

 

 何よりも言いたいこと

 なぜ物心ついた頃から今に至る20年ほどの間で、飽きもせず見れるのか、そして愛してやまないのか。

 

それはクライマックス

 

劇中、主人公達をネット越しで見ている世界中の子供達の応援メールによって回線に負荷がかかり、主人公たちは絶望的な状況に陥るが一転して奇跡が起きる。

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子供のころはあくまで負けるための都合のいい転落、子供向けの都合のいい奇跡だ。とそう思っていた。

 

しかしこれは違った。

 

何か大きなことを成そうとするとき、多くの人がそれを注目し、ありとあらゆる声が届く。

 

当人にとってそれは応援であろうと批判であろうと重荷となり、起き上がれないほどに打ちのめされる。

 

しかし!!

 

そうしてどん底に落ちたその時に自分を立ち上がらせてくれるのは、人々の声であり自分を顧みない覚悟である。

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人々を守るのがヒーローであれば、ヒーローを守るのは人々である。というオールタイムベスト

スパイダーマン2」でも訴えていた絶対的に正しいテーマだ。

 

子供向けの奇跡にも見えながら、何よりも誠実で2000年の作品であるにも関わらず、まさに今のSNS社会にも非常に重なる。

 

つまりは時代を問わない普遍性を持つのだ。

 

 

 

ポケモンへのアンサー

当然デジモンというコンテンツは「たまごっち」や「ポケモン」のヒットからの流れであるのは周知であり、当時の大人たちが”偏見”としてよく口にしている

 

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「行けピカチュウじゃねぇよ!サトシお前が行けよ!」

 

(私はミュウツーの逆襲でのサトシの行動を知っているためそうは思わないが)

 

そういった世代批判には既に2000年という大きな節目で既に答えを提示している。

 

それまでは画面越しで自分のパートナーに指令を出していた主人公たち自らがネットの中へと入り、満身創痍のデジモンに寄り添う。

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このアイディアは初期にはなく、当時の東映社長 泊懋氏の意見によるもので、細田監督は当初「主人公たちが中に入っても何もできない」と反対していたが次第に「一緒に居ることに意味がある」と気づいたという。

 

トイストーリー1作目においても最後に犬の鳴き声で終わるはずが、2人のやれやれ顔で終わる。というアイディアを、あの悪名高いマイケル・アイズナーが出したように、名作となる要因の裏には社長の一言があるのは感慨深い。)

 

つまり自分は安全圏の場所で、他力本願的に何かを使役してゲーム感覚の充足感を得る。という欺瞞的な構造から、自らの身も危険にさらすことによって精神、テーマは画面で起きていることと同様に

 

 

 

                

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これを果たすわけである。

 

 

最後に

どうだろうこれだけのテーマを40分で、それも静と動を交えながら描くことが出来るだろうか?

 

もちろんこれだけの作品を今の細田守には描けないし、周囲がやらせないだろう。

 

東映という制作現場、吉田玲子脚本、テレビシリーズの続編という非常に多くの好条件が"合体"して起こした奇跡的な作品だ。

 

この他にも核が落ちてくるタイムリミットが試験終了、ケーキ作りと重なり、劇中でも同様の時間が流れるという巧みな作りなど。

 

映像を流し、ワンカットワンカットを一時停止して誰かと語り明かしたほどだが、今回はこの辺りで。

 

 

 

頼む細田守!帰ってきてくれ!!!