ディズニ―の「モアナ」はなぜ一線を画しているのか
ディズニールネッサンス3期に入ってますます成長し、ルーカスフィルムそして「
アイアンマン」を始めとしたマーベルまでを買収し広がりを見せていくディズニー
その代表とも言うべき【プリンセス】像は2009年「プリンセスと魔法のキス」から始まったスクラップ&ビルドは2013年「アナと雪の女王」によって一種の到達を成した
それから2016年「ズートピア」とディズニーと過去の負の遺産との対峙を経て
ある意味、身から出た錆とも言うべき性、人種差別という社会的固定観念に禊を果たした(誇張)彼ら彼女らが2017年に打ち出してきた新たなプリンセス
モアナ
タイトルの通りこれがなぜ第三期ルネッサンスにおいて他のディズニー映画と一線を画しているのか
それを説明していこうと思う
まずポリティカリィコレクトネス(以下PC)というものがここ数十年で映画界を支配的とも言っていいほど広がりを見せている
PCとは「白人しか出ていないと黒人からの抗議が来るから黒人を出そう」
「インディアンといういい方は差別的だから先住民(ネイティブ・アメリカン)と言おう」
などがある
そのため物語上不自然な流れで差別の激しい時代が舞台であろうとも「差別はよくない!」「女は家事だけじゃない!」と現代的なことをセリフとして組み込んでしまうときがある
もちろん私はホモもレズも女性男性、肌の色問わず公平であることが人間性だと信じているが(その逆もしかり)あまりにこれが多くては雑味としてその作品全体の完成度を邪魔してしまう場合が多々ある
それ故に「アナと雪の女王」に乗り切れないところもあるのだが
「モアナ」においてもPCを多少不自然に入れ込んでいる場面がある
主役のプリンセス、モアナは村の不作を改善するため男の半神であるマウイをある場所へ送り届ける役目を負うのだが、その旅路でマウイはモアナに対してこう言う
「なんで村で子供作って家事をしてればよかったのにこんなことを」
という旨を台詞として発するのである
彼は1000年前に人類に火やココナッツを与えた後、無人島で一人暮らしていたにもかかわらず男女差の偏見をなぜか持っている
これによって差別はいけないんだよ、というお説教を言葉として出されることで物語所の流れを乱しキャラクターの矛盾にもなってしまっている
その一点があまりに不自然で好きと嫌いが混じり今までこうして何かに思いをぶつけるということをしていなかった
しかし、それはもはや問題ではない
PCなんて【おべっか】など気にならなくなるほどこの映画が語るテーマはもっとも原初的で熱く思い出せば自信を奮い立たせてくれる
ヒーロー映画なのだ
モアナは海を操り、マウイは魔法のフックで身体を自由に変身できるまさにヒーロー的能力を持っている
一見この要素がヒーロー映画と銘打つ所以と思われがちだが違う
モアナの住む村で禁じられている航海に乗り出し、自身よりも桁外れに強い半神と出会い使命に挫折し、再起し村へ戻り世界を革命する
これは遥か昔から語り継がれてきた神話となんら遜色ない
モアナとマウイは溶岩の悪魔テ・カァによって打ちのめされ一度使命を諦めるが、そのモアナに「使命が辛いなら村に帰ってもいい」と最大の理解者であった死んだ祖母の霊体に優しく抱かれるがなぜか思いとどまる
そして祖母はモアナに「自分が誰だか知ってる?」と歌い語る
私は島の事が大好きな女の子
そして海が大好き
私を呼んでいる
私は村長の娘
先祖は世界の海を
駆け巡った海洋民族
私を呼んでいる
やっとここまで来れた
遠くまで来れた
いっぱい学んだしそれだけじゃないのに
ずっと私を呼んでいる
でも呼ばれているのは水平線の向こうからではなく
私の中からだった
潮の様に
いつも下がったり上がったり
あなたをずっと心に留めておきます
思い出させて
何が向かってきても
私は道を知っている事を
I am Moana
そう彼女は英国王ジョージ6世のように自身の気持ちを歌い鼓舞し、電王のように過去からの希望を貰い、グレンラガンのシモンのように自分のヒーローは一つになって生き続けること知り
自身がどこからきてどこへ向かい誰であるかをこれまでの旅と今までの先祖たちから学ぶ
こんなにも熱くエモーショナルなディズニー映画は今までない
ついにディズニーがジャパニメーション的【歌舞伎】をやってのけた映画だと確信している
他にもフロンティスピリットや送り送られる構図の逆転によってのPCを感じさせない「女」のかっこよさであるとか、今までのディズニー映画にはなかった
外へと向かうテーマ
これが非常に素晴らしい大傑作映画なのでした
サントラ名曲ぞろい